片丘の歴史

参考文献:
「片丘村誌」片丘村誌編集委員会、昭和60年3月発行
「南内田区誌」南内田区誌編集委員会、昭和55年3月発行
「北熊井区誌」北熊井区誌編集委員会、平成20年12月発行


原始

高ボッチ山(旧称ぶどう山)の山麓には、竹ノ花遺跡、舅屋敷(しゅうとやしき)遺跡、小丸山遺跡、矢口遺跡など、縄文時代の遺跡が並んでいます。片丘の畑からは、壺型の土器や黒曜石の石器が出土しています。

弥生時代の遺跡は、南熊井犬原、中挾、北熊井、南内田などにみられます。内田原遺跡の発掘調査では、土師器、須恵器、灰釉陶器、緑釉陶器などのほかに、鉄器、糸、紙様灰化物など様々な生活の痕跡が出土しています。

炭化した籾や鉄製の鎌鍬も出土していることから、弥生時代には水田稲作がすでに行われていたと推定されます。大豆、クルミ、ドングリ、ハシバミ、サンショウなども発見され、主食を補い、調味料に工夫があったことがうかがわれます。
    


古代

飛鳥時代には大和朝廷が興り、奈良時代には平城京が開かれて律令国家へと日本は発展しました。現在の長野県地域は、『古事記』では「科野」、『日本書紀』では「信濃」と書かれており、大和朝廷にも認識しはじめています。

信濃の名称の起源については、「科(しな)」の木が多いからと言う説、古代に風の神を「シナト」の神とよび、高原で大風の吹く国として信濃と言う説などがあります。

『倭名類聚鈔』によると、信濃には十郡があり、現在の塩尻市はその一つ筑摩郡のなかの良田郷が中心だったようです。「良田」は「吉田」と同音異義語と考えられ、現在の広丘吉田、田川周辺の平地で弥生時代から水田が発達した地域を指しています。

大和から良田郷へは、小野を通る東山道と、奈良井川沿いの岐蘇路とが使われました。平安初期には、松本付近に信濃国府が置かれ、大和から国府への官道は良田郷を通り、覚志の駅(かがしのうまや)もこの郷中にありました。

良田郷の北東には、標高1,928メートルの鉢伏山があり、松本平へはいくつもの急流が流れ出ています。山麓に至ると段丘や平地を作り、石器時代から人類が住み、弥生時代に平地で始まった稲作は、棚田によって山麓にも広がったと考えられています。
   


中世

奈良時代、鉢伏山から松本平への山麓には、自然の中で馬を育てる官営の牧場「御牧」として、埴原牧が置かれました。御牧は、大和からみるると東国となり山麓原野のある甲斐・武蔵・信濃・上野の四国に限られていました。平安時代に入ると、牧は牧田として開墾され、さらに鎌倉時代には引水して水田になったと考えられています。

埴原は南側へと広がり内牧となり、さらに荘園化によって内田(北内田、現在の松本市内田と、片丘の南内田)へと呼び名が変わったという説もあります。

鎌倉時代から室町時代にかけて、現代へとつながる片丘の村落が記録に残るようになりました。

熊井は古くは熊野井と呼ばれた場所でした。その名の起源には、鹿・猪・熊と共に住んでいた人家があり「熊居」村となったいう説、神話の時代にこの地を「神居(くまい)」といった説、平重盛の子孫がこの地に隠遁して熊野権現を勧請した説など、諸説があります。

中挾は、熊井郷・塩尻郷東条と高出村との狭間の集落であることから、その名前がつけられたと考えられています。

南北朝時代にかけては、府中(現在の松本)が信濃国の政治経済の中心となっており、北朝方の守護・小笠原氏が館を構えていました。一方、諏訪には南朝方の後醍醐天皇の王子・宗良親王がはいり、諏訪氏とともに勢力を広げようとしていました。両陣営は桔梗ヶ原で戦い、府中陣営が勝利したと伝えられています。両陣営の狭間の地域として、いくつもの拠点(城)が造られたのでしょう。

熊井城(北熊井城)が、現在の城趾のように築かれたのは、室町・戦国時代に甲斐の武田信玄が北へ勢力を伸ばして諏訪氏を破って府中を脅かすようになったため、小笠原氏が防御のために築城したと考えられています。東西に本城を含めて6つの郭が空壕で分かたれて並び、その南側に大手門と水堀が築かれ、諏訪側に対峙する前線の砦のようです。城の背後の北側には、屋敷町、菩提寺としての常光寺、氏神として日枝神社などが整えられていました。

熊井城概念図(原図小岩井君人)『片丘村誌』

しかし、武田信玄は信濃への侵攻を進めて林城・深志城まで陥落し、天文19年(1550年)には守護の小笠原氏を追放して松本平を支配下におきました。さらに、天正10年(1582年)、織田氏の甲州征伐によって武田氏が滅び、小笠原氏が松本平を奪還します。徳川家康の麾下となった小笠原氏は旧領を回復し、松本城と改名しました。

豊臣秀吉の時代には、城主の小笠原秀政が関東に移封し、代わりに石川数正が入城し、その子の康長とともに天守閣を築き、城郭・城下町を整備しました。

徳川家康が幕府を開くと、石川康長は改易され、ふたたび小笠原秀政が入城します。小笠原秀政は家康の孫娘を正室に迎えて松本藩主となり、松本城を藩庁としました。


近世

江戸時代にはいり、当初、熊井郷・内田郷・中挾村は松本藩領にありましたが、元和三年(1617年)に高島藩(諏訪藩)領となります。藩庁は高島城(諏訪市)にあり、諏訪藩とも呼ばれています。周辺は松本藩領域であり、高島藩の飛地として東五千石(後に三千石)と称されていました。

江戸時代には、江戸と京都、各藩とを結ぶ街道が整備されました。片丘地区は、城下町には遠く、中山道・北国西往還(洗馬宿から郷原宿を経て松本へ)とも離れていたため、交通の便はよいほうではありませんでした。松本から中山道塩尻宿へは、鉢伏山・高ボッチ山の山麓沿いに高島領(諏訪領)東五千石地域を縦断する街道が整えられ、享保元年(1716年)に五千石街道と称せられました。

江戸幕府の行事として、鉄砲・弓矢等を使用せず雉子(きじ)を傷つけずに捕らえ、各藩から幕府に献上する追鳥狩がありました。高島藩(諏訪藩)では、八ヶ岳西麓の山浦地方に加えて、熊井村・内田村地方でも行われ、捕らえた雉子は高島城に届けられました。

君石(きみいし)は五千石街道の要所となり、お酒・肴・一膳飯などの看板が掲げられたお茶屋が何軒かあり、旅人の休憩所として栄えたそうです。ここで売られていた「君石饅頭(まんじゅう)」は味がよく、名物になっていました。

五千石街道が松本と高島(諏訪)を結ぶ街道でしたが、それとは別に旧塩尻峠から高ボッチ・鉢伏山を経て扉峠を越えて松本に至る小径があり、「夜盗道」と呼ばれていました。いろいろな伝説が残っていますが、松本と高島(諏訪)の間を夜に内密に物資を運んだ間道で「夜通った路」が語源ではないかと考えられています。

江戸時代、幕府と藩の経済は米の石高を中心にまわっていたため、各藩は稲作を保護し新田開発を奨励しました。片丘は山麓に広がり、山からの湧き水を活かして水田を拓いてきましたが、降雨の少ない年には苦労し、水争いも起きました。

畑作では、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、大豆、小豆、蕪大根、蕎麦、油荏などが栽培されました。田の畔には桑も植えられ、養蚕も行われました。


近現代

片丘(北内田村・南内田村・北熊井村・南熊井村・中挾村)は、明治4年(1871年)までは諏訪の高島藩に属していました。同年7月の廃藩置県によって高島藩となり、同年11月には信濃の南信6県(松本・高島・高遠・飯田・尾張・伊那)と飛騨の高山県とが統合されて筑摩県となりました。

明治7年(1874年)には、北内田村・南内田村・北熊井村・南熊井村・中挾村が合併して片丘村が発足します。そして、明治9年(1876年)に筑摩県は長野県等と合併して新生の長野県となりました。このとき片丘村の戸数は749、人口は3,453人でした。

明治12年(1879年)には郡制が施行されて、長野県東筑摩郡片丘村となりました。

大正14年(1925年)の片丘村は、戸数1,016、人口5,023人となっています。当時の村役場資料には、「本村は純農村にして住民は農耕養蚕を唯一の生業として山稼労働には僅かに農閑期を利用して薪炭の採取に従事するに過ぎず。村民は能く農耕を天賦の業として精励し、養蚕の如きは春夏秋の三期を通じて飼養し云々」とあります。

戦後の昭和20年(1945年)、農地調整法改正令が交付され、農村の民主化のために農地改革が行われました。昭和22年(1946年)2月には片丘村農地委員会が発足し、昭和26年(1951年)には農業委員会へと発展しました。

農業委員会は、行政機関としての機能、農業者の利益代表としての機能、農政の普及推進の機能を担いました。また、地域農業振興の農地移動適正斡旋事業、農地利用増進事業、農用地高度利用促進事業、中核的農家育成のための農業経営の規模拡大などに取り組みました。

昭和23年(1947年)、片丘農業協同組合が設立されました。

昭和26年(1951年)、第1回の高ボッチ草競馬大会が開催されました。

昭和34年(1959年)、片丘村は、塩尻町・広丘村・筑摩地村・宗賀村との合併により生まれた塩尻市の地区となりました。

昭和35年(1960年)、旧片丘村の北内田地区は塩尻市から分離して、松本市に合併しその地区となりました。

昭和39年(1964年)に片丘上水道新設の起工式が行われ、昭和40年(1965年)に水道給水が開始されました。

昭和53年(1978年)、塩尻市の農協合併が行われ、片丘農協は塩尻市農協の片丘事業所となりました。

昭和54年(1979年):片丘地域新農構事業認定、農用地造成事業(中原地籍)竣工、内田土地総合整備事業(東部圃場)着工。昭和56年(1981年):北熊井山寺沢区画整備事業着工。昭和57年(1982年):北熊井山寺沢区画整備事業竣工。南内田および北熊井の一部で土地改良区を設立。内田地区県営圃場整備事業着工。昭和58年(1983年):内田土地総合整備事業(東部圃場)完成。昭和59年(1984年):片丘多目的研修センター竣工。昭和63年(1988年):農免道路東山山麓線開通。平成4年(1992年):内田土地改良区竣工。


以上、参考文献(昭和60年「片丘村誌」、昭和55年「南内田区誌」、平成20年「北熊井区誌」)をもとに新居直明が要約執筆・編集しました。


現代

昭和・平成・令和の片丘地区の農業からワイン用ブドウ栽培の歴史については、ぜひ片丘ワイン振興協議会会長・小松千万蔵のストーリーをお読みください。

ワインを活かした地域振興のリーダー
小松千万蔵

片丘の農業リーダー
農業振興のために市政・県政へ
遊休農地をヴィンヤードへ
片丘ワインにかける夢

error: Content is protected !!