出典:「片丘村誌」片丘村誌編集委員会、昭和60年3月28日発行
狐親子が守った溜池
今から凡そ二百年前、南熊井入道宮の入の溜め池が、諏訪領主指揮の下に工事され完成した。その完成直前九月二八日未明、突然の集中豪雨で決壊寸前となった。当時、この池に狐の親子が棲んでいた。この親子の狐は日頃の村人への恩を返すために、この溜め池の決壊を身をもって守り、夜半に、村人の家の雨戸を叩いて急を告げた。村人は直ちに玄蕃にかけつけた。夜が明け、周辺が判然としたとき、その決壊の川下に狐親子の溺死体を見た。
そこで村人は、この狐の親子の犠牲的な行動に感謝して、溜池の北側の丘、池を真下に見る場所に、この狐の親子をまつり、毎年九月二八日はその命日として、今でも地元村人はこの親子の狐に感謝し、なお、将来もこの溜池の無事を記念し、祭典を欠かさずに行っている。今は護岸も完成し、この溜池の養鯉は一般に知られ、珍重されている。

君石伝説
鎌倉からある武将が、妊娠中の妻を家に残して、善光寺参詣の旅に出た。予定の月日が経っても夫は帰らないので、身重の妻はその跡を尋ねて外に出た。幾日かの旅の末、今の君石にさしかかった時、急に産気づいて男の児を産んだ。間もなくその男の児は死んでしまった。母は、亡児供養のため石の碑を建てた。土地の人はその碑を「君石」と呼んだ。
やがて父たる武将はこの地で妻に逢い、亡児の菩提のために一寺を建立した。時に弘長三年であった。その寺は時の年号にちなんで弘長寺と名付けた。寺は二度の火災で移転して、今は松本市赤木区の弘長寺がそれであるという。
現在でも、碑の付近一帯を君石といい、碑を御前様といっている。その東方の地には字「御前の木」という地字があり、かつて御前様がついて来た杖を道ばたにたてておいた所根が生じて、大木に成長したという。
君石様—御前様—は安産の神様であり、子供の虫歯の神様でもある。今でも参詣者があり、線香や大願成就のための小さな鉄の鳥居があがっている。

比丘尼清水 (ぴくにんしみず)
比丘尼とは尼様である。
崖の湯から横峯—高ボッチへ行く道の途中右側に、清水の湧き出ている沼池がある。昔は10平方メート ルくらいの池で、中央に石が一つあって水がたまっているので、通行人の水呑み場であったが、今では泥沼となり、水草が生えていて、昔のおもかげはない。
この池を比丘尼清水、または笄(こうがい)清水と呼んできている。
池のいわれについては悲しい物語りがある。
時は真夏の災天の下のことであった。憂い顔の、みめうるわしい、年の頃18、19の美人の娘が通りかかっ た。咽がかわいたので美人は水辺に行き、手で水を掬んで飲もうてかがんだとき、髪にさしていた笄(髪飾り)が、ポトンと小さな音をたてて水中に落ちた。美人は水中の笄をしばらく見つめていたが、やがてつぶやいた。
「笄が水の中に落ちたのは仏様のお手引きである。やはり私は尼さんになる運命を持っていたのだ」と。そして美人は、きれいな髪を切り落して尼さんになったという。
それから後、たれいうとなしに「ぴくにん清水」と言うようになった。

おいねどんちゃん
これは、一軒のうちが狐にだまされて、村中大さわぎになった話しである。
いつの時代だかわからないが、桔梗ヶ原に玄蕃之丞という元気のいいふるいきつねが住んでいた。五千石街道の北熊井新田に青木を名乗る一家があった。息子も年頃なので、早く嫁でももらって後をとらせようと父母は思い、いい嫁がみつかり、嫁をもらうことになった。その嫁に決まった娘の家は田川の西の方にあった。
いよいよこんれいの日が来て、青木家では用意万端ととのえ、嫁様の来るのを今か今かと待っていた。一方嫁様の方は決めた時間に、鈴の音も賑やかに、馬の背に乗せられて、大勢の付添の人々と一緒に出発した。
この情報を手下の者どもから知らされた玄蕃之丞は、ひざをぽんとたたいて、
「これは、ひょっとするとうまい話になるぞ、コン、コン」
と笑ったかと思うと、一族どもを引きつれて来て、嫁様の一行を桔梗ヶ原へ連れ出して、同じ所をぐるぐると歩かせておき、自分達は花嫁様の行列に化けて青木家にのりこんだ。
こちらは嫁様お出でと、型通りに迎えて無事に式をすませた。さては大宴会となり、飲めや歌えやの大騒ぎ。やがて宴会も終わり、招かれたお客様や近所の人達も帰ってしまった。
青木家の人達は漸くひまがあけて、急に気が付いてみたら嫁様の姿は見えないし、たたみの上は狐の足跡が一ぱいついている。これはきつねにだまされたのではないかと近所の人に聞いても何もわからない。途方にくれた青木家は、このことを村役人に訴えた。
村役人も捨ててはおけないので相談の上、一軒で一人ずつ鐘や太鼓、木片などを持って、村中の人がそろって、「おいねやいどんどん、じゃんじゃん。おいねやいどんどん、じゃんじゃん」と物すごいさわぎで探すうちに、三日目おおがけのふもとに、足の皮がきれたり、破れたり、真っ赤になって、たた茫然と坐っているおいねさんをみつけた。村人は早速助け出して連れてきたが、おいねさんは間もなくなくなったという。
このことがあって子供達には、おいねどんちゃんという言葉が、大変恐ろしいことのように感じられた。子どもの、泣きわめいた時や言うことをきかない時は、「それ、おいねどんちゃんが来る」と言えば、子供たちは、すなおになったいうことであった。
ただ今は、青木家もなくなり、何事もなかったように、静かにひっそりと、三、四本の墓石が残っているだけである。

動かずの石(たたり石)
北熊井の塔婆柳の地蔵さんの東へ200メートル行った小島家の畑の中に、苔むした石が、ぽつんと置かれたままの形で据わっている。大きな石ではない。幅1メートル、高さ50センチメートルくらいで、いい形をした石である。水色をした緑の混じった色をしている。
今から800年ほど前、源平時代のこと、鉢伏を信仰する行者がいて、この石にすわって盛んに行をした。その目的は、一途に、住民の平和・平穏を祈るということであった。
今の時代と違って、食べていくということと、病をしないことは、それは大変なことで、この行者の願いもそこにあったという。
この行者は石にすわり続けつつ、この世を去った。
その遺言に、この石に名前をつけてくれということであったが、長い間、名前もつけられないままに年月が過ぎた。
明治の初めの頃、村の富豪が庭園を作るべく、村人達を集めて、庭石を、そこら辺から適当な石を、金に糸目はつけないと運ばせて庭園を作り始めた。
その庭園の完成しないうちに、その富豪は変な熱病にうなされはじめた。熱さましの薬草を飲んでも、熱は下がるどころか上がる一方。これはえらいことになったと、家内の心配はひとかたならない悩みとなった。
その頃、東山の裾に、一人の老婆が住んでいた。御幣を立てて、村人達の悩みごとを言いあてて、救いの神のようにうやまわれている老婆であった。
富豪の家内は「そうか、そうか」と静かにうなずいた。
神棚に線香を一本火をつけてたてた。
線香の煙りが、静かに、杉の木立を包むように上がっていった。一本の線香の煙とその香りが、なぜこんな大木の杉の森を包んで上るのか、富豪の妻は判らなかったが、ありがたさに、ただただ涙がとめどなく流れ、掛けた前掛けがぬれにぬれて、草カヤを敷いてある床にしみていった。
やがて、静かに、静かに、目を閉じたままで御幣を、一度二度振って言った。
「石のたたりなのですぞ!」
しばらく間をおいて、
「庭を造っていると神の告げに出ている。村人を使ってそこらの石を運ばせ、我が意を得たりと、楽しみにふけることの良し悪しは判るかな。水色の石を、もとの場所に戻して供養しなさい!」
飛んで帰った家内は、村人の手を借りて、元の場所におさめて、老婆の言うように供養を三日三晩続けた。
その老婆の言葉の如く、富豪の熱は日増しに下がり、全快した。
そして、富豪の庭石の一件から、塔婆柳の人達は、これは「動かずの石」、別名「たたり石」と呼んでいる。
今も、この石は、800年前の姿のままで、畑の片隅に坐っている。


