Domaine KOSEI 味村興成氏

我々は塩尻の地で、メルロのみでワインを造る。この地にメルロを根付かせ、日本ワインの歴史を築いた先人の想いを胸に。果てなく続く、夢を追い求めて」(株式会社Domaine KOSEIホームページ)

株式会社Domaine KOSEI(以下ドメーヌ コーセイ)は、2016年から片丘地区でブドウ植栽を開始、2019年にワイナリーを設立し、2019年ビンテージの「片丘メルロ」を樽育成の後、2020年12月にリリースした。塩尻では最も新しいワイナリーである(2024年7月現在)。

代表の味村興成氏(以下敬称略)は、シャトー・メルシャンのチーフ・ワインメーカーを務めた後、自身のブドウ栽培とワイン醸造に取り組んできた。

なぜワイン、なぜ塩尻片丘、なぜメルロに情熱を傾けるのだろうか。
    

山口、静岡、そして山梨

味村興成は1957年(昭和32年)、山口県岩国市に生まれた。祖父の酒屋を継いだ父親は、業務用に特化して事業を伸ばした。岩国には米軍基地もあり、飲食店関係など様々な酒類の需要があった。

「父親は土日もなく働き、配達が終わるのが夜の十二時になることも少なくありませんでした。子供の頃、一緒に夕飯を食べた記憶は少ないのですが、お酒を扱う父親の背中を見て育ち、尊敬しています」

「わたしは次男だったこともあり、『教育も仕事も自分の好きなように進め』と言ってもらえました」

味村の叔父(父の弟)は、東京大学で学び、静岡薬科大学(現在の静岡県立大学薬学部)の教授を務めていた。味村は静岡の叔父の近くに下宿し、大学受験を目指した。

「叔父はドイツ語を教えていて、ドイツワインが好きでした。味わせてもらったドイツワインは、甘く美味しかった。『興成、ワイン造りどうかな。俺のところに持ってきてくれよ』と言ってました」

こうしてワイン醸造を志し、一九七七年に山梨大学工学部発酵生産学科へ進学し、大学院で修士課程も修めた。

「当時の大学では、ワイン醸造に関する内容はほとんど扱われず、ワイン会社に就職して実践するしかない、と考えました」

1983年、勝沼にワイナリーのあった三楽オーシャン(現在のメルシャン)に入社し、酒類研究所に配属される。
   

神奈川でワインを探求

三楽オーシャンの酒類研究所は、神奈川県藤沢市にある藤沢工場に立地していた。東京・神奈川に勤務する大卒社員はみな横浜市の保土ヶ谷寮に入り、味村もその一人であった。

「ワインを造りたくて三楽オーシャンに入社したのですが、蒸留酒の担当になります。各社のウィスキーを分析し、デーツをはじめ様々な焼酎を研究しました。社員旅行があり、宴席で工場長と酒類研究所長が並んでいました。お酒の力も借りて、ワインを担当させてくださいと直談判しました。向こう見ずなお願いでしたが、翌年には念願がかないます」

「藤沢工場では、醸造したワインの詰口(つめくち)分析があり、濾過の終わった酒などが何十も並びます。研究所の勤務は自由がきいたので、毎日並んだ酒を全種類、飲んだり味わったりしていました。とにかく興味があるので全て。生産担当の社員からは、『味村に飲ませるとテイスティングする酒がなくなる』と言われていました」

1980年4月、日本初のワイン専門誌『ヴィノテーク』が有坂芙美子によって創刊されていた。

「世界のワインを知らなければと思い、紹介されていたボトルを買って飲んでいましたが、お金がいくらあっても足りません。ヴィノテークの1983年12月号は、東京のワインバー特集でした。何軒もはしごして、ワイン会に出るようになります。ワインだけでなく、ワインに関係する方々との出会いがありました」

「ワインは料理と一緒に楽しむもの、と思い、横浜のフランス料理学校に通いました。先生は有名なレストランから来ていて、来週は何の料理ですか、どんなワインが合いますか、と聞くと教えてくれます。料理学校に行くときには、自分でワインを買っていき、それを皆に振る舞って、料理とワインの相性も勉強していきました」
 
フランスに行きたいと思い始めた味村は、語学も学ぶ。

「フランス語学校に通い、ネイティブの先生にもつきました。当時、ワインについての知識は洋書からです。横浜に有望なワインを輸入している酒屋があり、貴重なワインの洋書がそろっています。読ませてもらいに通いました。酒屋が忙しい時は、味村君ちょっとこれ配達してね、とビール配達を手伝うこともあります」
    

ボルドーへの留学

ボルドーに行きたいこと、フランス語を勉強していることをアピールしていた味村は、日本におけるワイン研究の草分け、『ワイン博士の本』(1973年)の著作もある農学博士・常務取締役、大塚謙一氏の目に留まる。

「大塚常務(当時)は、ボルドー大学ワイン醸造研究所長との親交があり、留学の道を開いてくださいました。幸運にも、わたしにチャンスが巡ってきたのですが、願書は自分で書かなければなりません。フランス語はまだ勉強中で、いろんな人に添削してもらって願書を送り、なんとかボルドー大学の入学許可を得ます」

1988年、味村は三楽(1985年に三楽オーシャンより社名変更、現メルシャン)からボルドー大学への最初の留学生となる。

「ポリフェノール研究の権威、グローリー研究室に入りますが、フランス語を学びながらです。DUAD(ボルドー大学認定利酒適正資格)の取得は、日本人として5番目になります。結婚して子供が四カ月のときに単身で渡仏し、落ち着いて家族を呼び寄せてからの試験勉強でした。家族もたいへんだったと思います」
    

パリに駐在

元号が昭和から平成に変わった1989年、味村はもう一年、ボルドー大学で研究したいと考えていた。

「12月、もうすぐクリスマスというときに、会社から電話がかかってきました。来週からパリ事務所に駐在してほしい、という辞令です。年末で急なことだったので、なんとか前任者が借りていたアパートに移り、翌年にパリの人々の生活と文化を感じる16区に引っ越しました」

1990年、社名は三楽からメルシャン株式会社となった。日本はバブル景気に沸き、円ドル相場もこの10年間で250円前後から100円台へと為替が強くなっていく時代。味村が駐在するパリ事務所には、日本から多くの来客があった。

「日本から来るお客さんから、今日はシャトー〇〇〇のこのビンテージを飲みたいよ、と言われたら断るわけにはいきません。僕も飲みたいし。ご相伴にあずかって、上等なフランスの料理とワインを楽しんで、すごく勉強することができました」
    

シャトー・メルシャン 信州桔梗ヶ原メルロー

1989年6月、「シャトー・メルシャン 信州桔梗ヶ原メルロー 1985」が、スロヴェニアの首都リュブリアーナで開催された国際ワインコンクールで大金賞(グランド・ゴールド・メダル)を受賞する。翌1990年も、1986年ビンテージが大金賞を連続受賞した。

ボルドー大学留学からパリ事務所駐在。この頃フランスにいた味村は、「現代日本ワインの父」と呼ばれ、勝沼ワイナリー工場長(1989年3月より理事)を務めていた浅井昭吾氏の出張をアテンドした。

「浅井さんは、準備を怠らない方でした。自分が疑問に思うことは文献を読んで調べあげておく。ワイナリー訪問の前日には、こういう質問をするから通訳できるようにしておきなさい、と打合せました」

「リュブリアーナでの大金賞も、桔梗ヶ原でのブドウ栽培とワイン醸造だけで成しえたものではありません。コンクールについて研究し、関係者の信頼を得て出品しています。受賞後も、フランスのレストランでワイン関係者やメディアにテイスティングしてもらい、知名度をさらに高めます。ヒュー・ジョンソン氏に働きかけて『ワールドアトラス・オブ・ワイン』に日本の桔梗ヶ原を掲載してもらいます。こうした海外での評価を活かして、日本国内でのシャトー・メルシャンのブランドも高めてきました」

「浅井さんは日本各地のワインショップの方々とも懇意にしていて、年に何度も出かけてワインセミナーを開催し、『桔梗ヶ原メルロー』を広めていきました。皆から信頼があり、話題作りも上手で、凄い方でした」
    

シャトー・メルシャン、チーフ・ワインメーカー

1991年、味村は帰国し、メルシャン勝沼ワイナリー(現在のシャトー・メルシャン)に配属される。1998年からはチーフ・ワインメーカー(醸造責任者)を務める。

「勝沼に戻り、日本で栽培されたブドウからのワイン造りに取り組みました。メルシャンのメルロは、浅井さんの時代から、長野県塩尻市、桔梗ヶ原の契約農家の皆さんに栽培していただいていました。私は塩尻分場長も兼務したので、桔梗ヶ原メルロのワイン醸造は21回の仕込み、21年の経験をすることができました」

1980年代に長野・山梨・東京を結ぶ中央自動車道(高速道路)が整備される。勝沼から諏訪へは1982年、塩尻へは1988年に結ばれた。桔梗ヶ原で収穫されたブドウの勝沼での醸造や、桔梗ヶ原で醸造したワインを勝沼に運んでの熟成が可能になっていた。

味村は、白ワイン、勝沼で古くから栽培されてきた欧州を起源とする日本固有のブドウ品種「甲州」によるワイン造りにも貢献した。

「東京のワインバーをめぐっていたときに、富永敬俊先生との出会いがありました。富永先生はボルドー大学醸造学部で博士号を修めて研究者となります」

2003三年、メルシャンは甲州種ブドウと酵母の掛け合わせを探求する中で、柑橘系の香りをもつワインを生み出した。この香りについて、メルシャンはボルドー大学の富永博士と共同研究を行い、「甲州きいろ香」の成分を特定し、その製法を開発した。味村はチーフ・ワインメーカーとして「シャトー・メルシャン 甲州きいろ香 2004」を世に送り出し、高い評価を得た。
    

自らのヴィンヤード、ワイナリー

勝沼でチーフ・ワインメーカーを務めた後、味村は東京本社に勤務する。

「ワイン造りからは離れましたが、本社で仕事をしているとワイナリーでは分からないことも見えてくるようになります。本社にいるからこそ話せる方々がいます」

ワイン造りへの変わらぬ情熱を抱き、その想いが募っていた時、ワイナリーを立ち上げたい事業家との出会いがある。

「味村さん、自分の目指すワインを造ってみませんか」

メルシャンの定年まで2年を残し、58歳の時、味村は退職と独立を決心した。

「造る以上は、世界に誇る日本ワイン、自分自身の経験を活かした唯一無二のワインにしたい。量を造るのではなく、美味しい酒を造る」

赤か白か。

「白ワインも、もちろん美味しいです。赤ワインには、長期熟成して味わい深くなる、という楽しみがあります。寿命も長い。白ワインでは醸造テクニックの違いを出せますが、赤ワインは9割以上、栽培し収穫するブドウで決まります。やはり、赤でいきたいと思いました」

味村の自宅は、山梨県甲府市にあった。

「まず身近な山梨県内でのワイナリーも考えました。新たに栽培できる土地と、温暖化の傾向を考えると、山梨だと標高のあがる明野(あけの)が候補になります。山梨の赤だと、マスカット・ベリーAが地域に根ざしていますが、やはり国際ワイン醸造専用品種にしたい。すると、長野か」

メルロの醸造を21シーズンにわたり経験してきた味村だが、赤の品種について、あらためて思いをめぐらせた。

「カベルネ・ソーヴィニヨンは、メルシャン城の平で経験がありました。シラーについては、一九九二年から勝沼で栽培し、日本の先駆けだと思います。ピノ・ノワールは、米国でもカリフォルニアは難しくて、より冷涼なオレゴン、ワシントン州。日本だと北海道が有望です。やはり、わたしはメルロに夢を賭けたい」
    

片丘のメルロ 

「赤ワインはブドウ栽培が9割。垣根(かきね)栽培にすることは最初から決めていました」

味村は長野県でのメルロ栽培とワイン醸造を目指して、圃場の候補地を検討した。

「メルロといえば桔梗ヶ原、という想いはありました。林五一さん、林幹雄さん、浅井さんが切り拓き、築いてきた伝統と実績があります」

桔梗ヶ原は、国内のみならず世界でも知られたメルロの銘醸地になっていた。

「しかし、桔梗ヶ原にはヘクタール単位のまとまった畑を見付けることはできませんでした」

「長野では、千曲川流域にも新しいワイナリーが開かれていましたが、メルロならば、やはり塩尻だと思いました。1976年からワイン醸造のために本格的にメルロが栽培されてきた歴史があります。シャトー・メルシャンでは、塩尻分場長も兼務した経験があり、土地と気候も知っていました」

塩尻市は、2013年に県が策定した「信州ワインバレー構想」を追い風に、市としても独自にワイン醸造用ブドウ栽培の振興、新規就農の促進に取り組んできていた。古くは桑栽培が広がっていた山麗の片丘は、ブドウ栽培の適地であり、塩尻市としてまとまった土地の斡旋に力を入れていた。

「塩尻市役所から遊休農地の紹介を受けたのが片丘地区です。ここは標高700メートル前後の土地で、桔梗ヶ原とほぼ同じです。日照量と雨量も申し分なく、『日当たり、水はけ、礫(れき)の量、風通し』という条件を満たしていました」
  

バラの名を付けた圃場

2016年、味村は片丘に土地を手当てし、ヴィンヤード(圃場)の開墾と植栽を始めた。

「市から農地を紹介いただいたときは、A区画、B区画と、圃場はアルファベットで呼ばれていました。これでは夢がない。ボルドー右岸のサンテミリオンでは、醸造用タンクに女性の名前を付けて、呼びかけていたところがありました」

「繊細で美しいバラが咲く畑には良質なブドウが実る、と言われています。ドメーヌ コーセイでは、すべての圃場にはバラを植え、そのバラの名前を圃場に付けました」

ALive アライブ
Beverly ビバリー
Cherry Bonica チェリーボニカ
Deep Bordeaux ディープボルドー
Emi 笑み(エミ)
Framboise Vanille フランボワーズバニーユ
Goethe Rose ゲーテローズ
Hans Gönewein ハンスゲーネバイン
Iceberg アイスバーグ
Jasmina ジャスミーナ
Kinda Blue カインダブルー
Larissa Balconia ラリッサバルコニア

「我々は塩尻の地で、メルロのみでワインを造る」

味村興成、ドメーヌ コーセイは、夢を実現する第一歩を片丘で踏み出した。
    

(了)
    


本稿は、新居直明著『片丘ワイナリー物語』Kindle電子版2024年7月15日発行、ペーパーバック版2024年7月16日発行(ISBN ‎ 9798333096784)を底本として、本サイトに公開しています。

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