
街道筋の山里
現在の塩尻市北小野と辰野町小野は、古くは一つの地域であり、「憑(たのめ)の里」と呼ばれ平安中期の『枕草子』にも記されていた。「小野」という地名は、霧訪山から緩く傾斜した小さい野という土地の特徴に由来し、鎌倉時代には軍馬を育てる牧(まき)があったと伝えられている。
律令時代には畿内の都と信濃国府(現在の松本)とを結ぶ東山道が開かれ、美濃国(現在の岐阜)から神坂峠を越えて伊那谷に入り、天竜川から支流の小野川沿いを北上して善知鳥(うとう)峠を越えて塩尻へと通じていた。平安時代には、京都から信濃へは岐阜から鳥井峠を越える木曽路が使われるようになった。
江戸時代にはいると、徳川幕府は江戸と京都を結ぶ二つの主要街道を整えた。一つは太平洋岸をまわる東海道であり、もう一つは本州の内陸部の木曽路を通る中山道であった。中山道の開設当初、下諏訪から木曽路へは、岡谷から小野峠(1,080メートル)を越えて小野宿にはいり、さらに牛首峠(1,072メートル)を越えて奈良井川に出る小野街道(初期中山道)が開かれた。

小野街道(初期中山道)は、集落が付近に少なく難路であったが、木曽の森林資源を江戸のまちづくりに充てるための近道として企図された。しかし、この街道を設定した幕府勘定奉行の死によって廃止となり、替わって下諏訪から塩尻峠(1,055メートル)を越えて、桔梗ヶ原を通って奈良井川に出る経路となった。中山道は六十九次となり、下諏訪宿(#29)と奈良井宿(#34)の間には、塩尻宿(#30)、洗馬宿(#31)、本山宿(#32)、贄川宿(#33)が開かれた。
北と南の分割と小野宿
小野は、地理的に北の松本盆地と南の伊那盆地との中間地帯にあり、古くから領地争いが絶えなかった。天正19年(1591年)、松本城主(石川数正)と飯田城主(毛利秀頼)との領地争いを豊臣秀吉が裁定して、筑摩郡の北小野村(現在の塩尻市北小野)と伊那郡の南小野村(現在の辰野町小野)とに分割された。
この地には神社も二つある。北小野にある小野神社は、信濃国一宮となる諏訪大社に続いて信濃国二宮となる。この小野神社の南側には隣接して矢彦神社があり、こちらは辰野町小野の飛地となっている。古くは一つの神社であったが、境内を流れる小さな川の北と南で、村とともに二つの神社になったと伝えられている。

小野宿は、松本から伊那・高遠へと至る伊那街道と当初の中山道小野街道とが交差する南小野村に開かれた。中山道が塩尻・桔梗ヶ原経由となった後は、伊那街道(三州街道)の宿場町として栄えた。当時、小野宿の問屋(運営責任者)は小野家が務め、その本棟造りの家屋は往時を偲ばせている。

造店がある。小野宿問屋に生まれた小野庄左衛門正常により創業された。酒の銘柄「夜明け前」は、「木曽路はすべて山の中である」の書き出しから始まる島崎藤村の小説名から名付けられた。幕末から明治維新の激動期の中山道の宿場町、馬籠宿の青年像を描いている。
北塩・南塩の終着点
旧小野家住宅の隣には「南塩終点の地」の石碑が建っている。塩は人々の生活の必需品であるが、古くは海水から塩造りをしたため、特に内陸部の町や村では貴重であった。

「南塩」は、太平洋で造られる塩であり、1997年に出版された『The Longest Salt Road もっとも長い 塩の道 —日本海・アルプス・太平洋 350km—』によると、静岡県相良を起点として秋葉街道から伊那街道を通り辰野から小野に至っていた。
また、石碑によると、三河湾沿岸で取れた塩は矢作川から足助を経て伊那に入り「足助塩」と呼ばれ、駿河湾から富士川を上がり甲州街道から諏訪へと運ばれた塩は「鰍沢塩」と呼ばれた。また、小野の石灰職人が江戸や上州で石灰を売りさばいた後に、江戸沿岸で取れた塩を帰り荷として運んで塩もあり、「江戸塩」と呼ばれた。
一方、日本海の越後(現在の新潟県糸魚川)で取れる塩は「北塩」と呼ばれ、糸魚川街道によって南へと運ばれた。松本藩は、領内の南端にある北小野までは北塩を移入したが、距離的には太平洋からよりも近いにもかかわらず、松本藩領の外にある小野から伊那地方へは売りさばきを禁じていた。
歴史的には、北小野と小野それぞれが北塩と南塩の道の終端となっていたのである。
北小野の耕作地
現在、北小野のブドウ畑は、霧訪山(標高1305メートル)から南東方向の山裾、小野川右岸の支流の刈矢沢と唐沢の間の扇状地にある。霧訪山登山口(標高890メートル付近)から北小野市街の縁(標高840メートル付近)のなだらかな南東斜面に開かれている。

霧訪山の裾野は、礫層の上を黒ボク土が覆っていて、ここが北小野の畑耕作地として活かされてきた。
日本海への分水嶺となる善知鳥峠から、太平洋に注ぐ天竜川沿いの辰野町にかけての谷筋は、風の通り道になっている。秋から冬にかけては北風が吹くが、夏には伊那盆地からの南風が谷を上がっていく。
市街地からさらに下った盆地の底には小野川が流れ、川沿いの土地では古くから水田が拓かれて稲作が行われてきた。
また、この山域には石灰岩が多く、善知鳥峠には小さな鍾乳洞もある。塩尻市域でもっとも古くに石灰岩の採取が行われたのは、江戸時代の前半、寛文年間(1671~1672年)、北小野村の苅矢沢と伝えられている。原石を石灰焼として、白壁の漆喰、木綿の晒しなどともに、耕作の肥料としても使われた。
桑栽培の発展と衰退
蚕の繭から生糸(絹)を生み出すことは、今から五千年も前、古くに中国大陸で考案され、蚕を飼うための桑の栽培とともに養蚕業として発展した。日本へは紀元前後の弥生時代に大陸から伝来し、国内各地に伝播していったが、その後も絹織物に使用される上等な生糸は、中国大陸産が中心であった。
安土桃山時代にはポルトガル商人による南蛮貿易が活発になり、中国・マカオからの生糸が最大の輸入商品になった。その代金として、金銀が大量に海外に流出していったことから、江戸幕府は1639年に鎖国令を出して南蛮貿易を禁止するとともに、生糸(絹)の国産強化政策をとった。信州の各藩においても、米の年貢を補う現金収入の方策として、桑栽培と養蚕を保護奨励してきた。
江戸末期の1853年、神奈川浦賀沖にペリー艦隊が来航し、1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年に横浜が国際貿易港として開港した。経済発展期にあったアメリカでは絹織物の需要が高まっていたが、世界の主要産地のフランスとイタリアでは病気による蚕の大被害があり、中国(清)は植民地支配のもとで生産が振るわなかった。そのため、開国後、生糸が日本からの輸出の最大品目となり、国内養蚕業への需要が高まった。
明治期には国の殖産興業政策によって各地で養蚕が盛んになり、長野県は桑園の面積、繭産出量、生糸産出量のすべてにおいて日本のトップとなった。特に岡谷・諏訪地域では、諏訪湖の水、天竜川の水力、人々の創意工夫などを背景として近代的な製糸業が発展した。
北小野はシルクシティと呼ばれた岡谷に近いことから、生糸原料のための養蚕が盛んになり、明治10年頃には農家の7割が養蚕を営むようになった。現金収入の魅力から雑穀など自給作物の作付は減少し、桑栽培へと転換していった。山畑・荒畑を開墾して桑畑が造成され、養蚕が拡大した。

明治後半から大正期にかけて日本の養蚕・製糸業は輸出を中心にめざましい発展を遂げたが、その繁栄は長続きせず、昭和4年(1929年)にはじまった世界大恐慌による市況暴落と輸出途絶、太平洋戦争による経済統制、さらに、化学繊維の普及によって、国内の養蚕・製糸業はほぼ壊滅した。
蔬菜(市場向け野菜)、そしてワイン用ブドウ栽培へ
戦前は桑栽培が中心であったため、北小野の畑での野菜栽培は自家用程度であったが、戦後は市場向けの蔬菜栽培へと転換していった。レタス、キャベツ、白菜、短根人参、ほうれん草、えんどう、かぼちゃ、ソバ、アスパラガスなどが栽培された。
しかし、平成から21世紀にはいると、高齢化と後継者の不足などを背景に専業農家は減少し、北小野の耕作地の未来が危ぶまれる状況になってきた。
そして、2006年、稲垣雅洋によってワイン醸造用ブドウ、ピノ・ノワールの苗木が北小野に植えられた。
参考文献
「北小野地区誌」北小野地区誌編纂会、昭和62年3月
「塩尻市の集落の歴史」塩尻市誌編纂委員会、1995年
「たぐる糸の系譜 : 岡谷の製糸業」清水袈裟春著、平成18年7月
「養蚕王国信州ものがたり」阿部勇編著、2016年10月
「養蚕王国 長野県 日本の近代化を支えた養蚕・蚕種・製糸」新津新生著、2017年2月
